日本昆虫学会80年のあゆみ
1. 東京昆蟲学会の創立
日本で最初の昆虫学専門の学会が創設されたのは1905(明治38;以下元号略記)年のことである。「日本昆蟲学会」と称し、会誌「昆蟲学雑誌」、後に「日本昆蟲学会会報」を発行したが、この会は現在の日本昆虫学会とは異なる団体であり、経営難から4年間で活動を停止した。1915(大4)年にこの(旧)日本昆蟲学会の幹事であった三宅恒方と、農務省林業試験場の矢野宗幹が「東京昆蟲学会」(これも次に述べる同名の会=現在の日本昆虫学会の前身、とは別団体とされる)を創設したが、実際の活動はほとんど行なわれなかった。 1917(大6)年、矢野は新たに学会創立の構想を持ち、農務省農業試験場の木下周太、小島銀吉、農科大学の伊藤盛次らに呼びかけて、3月10日、東京帝国大学第2学生集会所において、「東京昆蟲学会」を創立した。これが現在の日本昆虫学会の出発点である。上記4名がこの学会の幹事となり、事務所は東京市神田区山本町の伊藤の自宅におかれた。創立当初は会長もおかず、会誌も発行されなかった。会費は特別会員2円40銭、通常会員1円20銭と定められた。東京昆蟲学会は月次例会を活動の中心としていた。これは1、7、9を除く毎月開催され、それぞれ数名の昆虫学者による講演が行なわれた。また、1919-25(大8~14)年の間に、日本植物病理学会と合同で4回の講習会(1回の日程は約10日間)を開いた。1921(大10)年、会則を改訂して会長を置くこととし、初代の会長に佐々木忠次郎が推挙された。
2. 会誌「昆蟲」の発刊と20周年記念事業
1926(大15)年、事務所を目黒の林業試験場へ移し、会報を発刊することになった。会報の編集は矢野幹事が担当し、年4回の雑誌を出版社、養賢堂から発行することとなった。会報の名前は矢野によって「昆蟲」とされたが、この簡潔な名前は当時としては斬新で、好感を持って一般に受け入れられたという。創刊号(第1巻第1号)は11論文ほか、時報、会報(会記)などを含み、70頁で構成され、同年6月15日付で発行された。1931(昭6)年に到って、学会が直接「昆蟲」を発行することになり、発行回数も年6回となった。 会報の発行に伴って諸々の問題が生じるようになったため、1928(昭3)年、会則を大幅に改訂して、幹事の交代、評議員会の設置および評議員の選出(29名)が行なわれた。翌年第1回の評議員会が持たれ、佐々木忠次郎、松村松年が名誉会員に選出された。同年さらに会則が変更され、会長は評議員の互選で定め、任期1年で重任を認めないとされた。翌昭和5年度の会長に桑名伊之吉が選ばれた。1930(昭5)年発行の会員名簿では171名の会員が名を連ねている。当時の活動内容を見てみると、講演会に加えて年2回ほどの採集会が高尾山などでとり行なわれている。
1935(昭10)年、会の名前を「日本昆蟲学会(The Entomological Society of Nippon)」と改めた。翌11年、会の創立20周年(実際は19周年)を記念して、第1回大会の開催ほか、記念行事が企画された。第1回大会は東京科学博物館(現国立科学博物館)で同年9月27日に開催され、22の講演が行なわれた。時と場所を同じくして記念展覧会と通俗講演会が催され、昆虫関係の多数の標本や文献が、個人、研究機関、企業によって出品展示された。また、これらに先だってラジオ記念講演が行なわれ、全国放送された。大会はこの記念大会を第1回として、翌々年第2回が京都帝国大学農学部で開かれ、以後、おおよそ毎年1回、日本動物学会の大会と相前後してその会場に近い場所で行なわれるようになった(戦時中まで)。この創立20周年の記念行事は学会史に残る大がかりなイベントであったばかりでなく、ここに到ってようやく現在におよぶ学会の骨格(組織、活動、財政)が完成されたことを示すものであったといえる。
3. 太平洋戦争前後
1938(昭13)年、日本応用昆蟲学会が設立され、実質上、日本昆蟲学会の応用分野が独立した形となった。1943(昭18)年に学会の事務局は文部省資源科学研究所に移され、同研究所の職員だった野村健一、浅沼靖が事務を取り扱うようになった。しかし会誌の印刷はしだいに支障を来すようになり、戦時下の4年間に2巻それぞれ4号を出版したにとどまり、また、配給統制の強化によって、1944(昭19)年、ようやく発行にこぎつけた16巻3/4号はほとんど会員の手に渡らずに散逸してしまった。さらに製本まで完成していた17巻1号は1945(昭20)年5月24~26日の空襲で、研究所ごと全て灰となってしまった。 終戦間もない1946年7月、日本応用昆蟲学会および日本衛生昆蟲学会と合同で戦後最初の例会を行なった。翌年、会長が松村松年から石井悌に変わり、事務所を、新宿百人町に財団法人の付属施設として再建された資源科学研究所に設置した。ガリ版刷りの「日本昆蟲学会雑報」を発行して、会員に報告を行なうと共に、会員の動静、消息の情報収集につとめた。この結果、翌1948年には会員名簿(会員数449名)が編まれたが、住所不明の会員が77名もあった。1947年には京都帝国大学で第7回、翌年には東京の農林省蚕糸試験場で第8回の大会が開かれた。この際、会則が新たに作られ、評議員を全国7つ(後に9地区)の地区別に選出することが決め。 1947年には会費が15円(誌代別)であったが、翌年デノミネーションにより100円+誌代300円とされた。
1949(昭24)年、深刻な物資不足の中、浅沼幹事の努力によって「昆蟲」が復刊され、新しい17巻1号が発行された。この号から19巻(1951-52)まで、会員の一人、山本正男が資源科学研究所付近に設置したきわめて小さな印刷施設によって作られた。なお、17巻から「昆蟲」の表紙に記載されている会の英語表記が“The Entomological Society of Nippon”から、“The Entomological Society of Japan”に変わっている。
4. 戦後復興から50周年まで
北海道、東北、関東、信越、東海、近畿、中国、四国、九州の各支部が1949年から1953年の間に相次いで結成され、それぞれに支部集会を開いたり、支部会報を発行するなどの活動を行なうようになった。1951年より会長に就任した江崎悌三は1957年まで連続して会長を務めている。1953年には事務局を東京上野の国立科学博物館に置き、「昆蟲」の印刷は福岡で行なうようになった。1954年末に作られた会員名簿ではこの時の会員数464名、翌年500名を超える。会費は漸次値上がりして700円となっていた。 1957(昭32)年、江崎会長の下、創立40周年を記念して、記念大会(第17回大会)、記念展覧会「世界の昆虫展」、「昆蟲」(1-25巻)総目録の刊行、「昆蟲」16巻3/4号の復刻、会章制定などの記念行事がとり行なわれた。「昆蟲」25巻3号は創立40周年記念号として刊行され、江崎著「日本の現代昆虫学略史」および磐瀬太郎・江崎著「年譜と一覧」によって40年の歴史がとりまとめられた。この年12月、江崎は会長在任のまま急逝する。
「昆蟲」はこの時期、順調に巻を重ね、32(1964)、33(1965)巻には日米科学協力研究「太平洋地域の昆虫類の地理的分布と生態」関係の論文を併載した。1966年、自然保護昆虫委員会が発足。委員長として白水隆を委嘱した。1967年、創立50周年を迎え、安松京三会長らにより、「昆蟲」創立50周年記念号(35巻3号)の発行など、記念事業が企画、実施された。この年、会員数は1000名を突破している。
5. 現代社会の中の日本昆虫学会
日本昆虫学会の最近30年間の動きは、日本経済の安定の中で、環境問題、情報化、国際化といった、社会の流れや要請に応ずる形で作られてきたと言えるだろう。 1969年には自然保護委員会が再発足し、1970年には自然保護に関する声明書を公表している。1973年、第33回大会では昆虫の乱獲や売買などの不祥事に対する声明を公表した。また、伊豆諸島における殺虫剤の空中散布についても昆虫相への影響が懸念されるとして中止の要望書を東京都へ提出した(1978年)。同じ頃、環境庁からの委託で、全国昆虫類分布調査(第2回緑の国勢調査)を都道府県単位で行なった。以後、ようやく自然保護行政に重い腰を上げた中央省庁と連携をとりながら、学会としての自然保護活動を展開してゆくこととなった。
1973年、学会基金の設立が決定し、1976年にはこの学会基金による出版費および国際昆虫学会議出席旅費の補助など、学会からの研究援助活動が可能になった。また、この年、会の事務運営が日本学会事務センターへ委託されることになり、会員への人的労力の負担が大きく軽減されることになった。1979年、学会事務所が国立科学博物館分館へ移転した。
国際昆虫学会議(International Congress of Entomology;ICE)は4年に一度開催される、昆虫学関係では最大規模の国際会議であるが、アジアでは初めてのこの会議(第16回)が1980年8月3日~9日、京都国際会館および周辺施設において開催された。18のセクションに分かれた本会議のほか、多数のシンポジウム、一般講演、ポスター発表、ワークショップが14の大会議場と2つの大展示場、およびいくつかの小会議場で催され、多くの小集会が周辺施設で持たれた。発表論文アブストラクトと記念出版物“Entomology in Japan”が併せて出版され、参加者に配布された。また、郵政省からギフチョウをデザインした記念切手が発売され、記念スタンプの押印も行なわれた。国内外あわせて2,200余名の参加者があった。このICEの成功に象徴されるように、国際交流や国際共同研究事業への本会の取組は年を追うごとに高まり、1980年、本会はICIPE(国際昆虫生理生態学センター)協会に加入し、研究者をケニア、ナイロビにあるICIPEに派遣して、国際的な研究プロジェクトに参与することになった。
1988(昭63)年、日本応用動物昆虫学会(応動昆)より本会との合併についての申し入れがあり、検討して行くこととなった。両学会は1991年以降6回にわたって合同大会を持ち、この問題に関するシンポジウム(1993年)やアンケート調査(1994年)が実施された。1995年、郵便による全会員の投票が行なわれた結果、両学会の合併は成立せず、それぞれ独自の道を歩むこととなった。
このように応動昆との合併は画餅に帰したが、1995年に結成された自然史学会連合にも本会は当初から参加しており、日本を代表する昆虫学の学会として関連学会と連携を保ちつつ、多岐にわたる活動を展開している。
(文責:野村周平)